長文が書けないし、良文も書けない
どうも毎回のあいさつがなんかの映画見ましたで固定されているイトシです。
ちなみに今回はJOKERを見ました。
ジョーカー観た
— 恋と死と (@itoshi_cocco) 2019年10月8日
スーサイドスクワッドの時から彼はとびっきりにイカれてて、今回の映画でどうイかれたのか知ろうとしたけど、彼は最初からイかれてたかもしれないし最後までイかれてなかった気もした
周りが誰もがジョーカーになる可能性があるって言っている理由がわかった気がした
なんていうかいろいろな『ジョーカー』のレビュー読んであー思っていたのと似てるわーとか思いながらも、そこまで読んどらんかったわ。
なに・・・この深い文章とか思うと、文章書く気力もなくなってくる。
どちらかというと僕は映画好きであることは認めるけど、どうしようもなく映画を考察する側の人間ではなく、そういう楽しみ方もアリだなと思う。だからこそ映画の感想を書くのはなかなかに苦手だ。
わりとしょっちゅう映画レビューを書くことがあるけども、やっぱり公開してから怖いなぁと思うことは多い。解釈違いであったり読み間違いであったり。っていうかそこまで深く考えて映画見てないしな。
なんというか受け取り方の違いこそが映画の本当の意味で面白いところだとは思うんだけれども、それをなかなか受け入れることができない自分がいる。
1つの作品を見て感じ方は人それぞれ。JOKERだってそうだ。あの作品を怒りの具現化として『恐れ』という感情で受け取ることもあれば、幾重にも張り巡らされた虚実の物語としての『興味』とも受け取れる。一人のヴィランの誕生を祝う『歓喜』だってあるのだ。そんなことはわかりきっているとも。
僕が長文や良文を書くことができない理由は、そういった解釈違いを恐れ、あるはずのない正解を求めてしまっていることが原因なのかもしれない。
最近ゲーム実況をみていてそう思うことが多い。僕は昔からゲームをするときに最善手を求めてゲームをしてしまう。ゲームオーバーを絶対にしないようにトライ&エラーなどくそくらえとも思えるほどにゲームをプレイするのだ。正直言ってゲームでも肩身が狭いのだ。ダメージを喰らってしまってもいいじゃないか。一周目でアイテムをコンプリートしなくてもいいではないか。ファイアーエムブレムで仲間を失ってもいいじゃ・・・いや、ダメ?俺もそう思う。
そんな感じで正解ばかり求めているから感性深い自分を正確に表現した文章を書くことができないのだと思う。
俺もいつかは自分のことをしっかりと表現できる文章を書けるといいなぁ。