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サービスエリアの道路ど真ん中で立ち止まってしまうおばさんの心理学

以前から殺意がたまっている相手がいる。道のど真ん中で急に立ち止まって会話を始める人類だ。

 

 

ってツイートを最近したんですが、こないだの記事で過去ログを振り返っていたら、

 

 

ということをつぶやいていた。高速道路で運転してるとこういった現場に居合わせることは度々あるようだ。ネットサーフィンしてると、僕に限らず

なぜ女性は狭い道の真ん中で突然止まるのか? -なぜ女性は通行時、周囲- 友達・仲間 | 教えて!goo

なぜ女の人は通路のど真ん中や出入り口のど真ん中で立ち話をするのでしょう?... - Yahoo!知恵袋

同じ悩みを持つ同士に何度も出会うことができた。

 まぁ一通り読み漁ってみると「おばさんは周りを気にしていない」やら「自分が地球の中心と信じて疑わない」やら「DNAに刻まれている」やら面白い意見をいくつか。性差別的な意味合いなのか「女性は周りが見づらい」みたいな記述も見られた。あまり言及するとあらぬところの角が立つ気もするが、今回はどうしても気になったので調べることに決めた。

 

突然の会話の形成

 道中で突然立ち止まる現象について、女性一人の時でも起こりうるというのが先ほどの調べでもわかった。ただ、SA内で突然立ち止まる人は、バスツアーなどで遊びに来ているおばさんが傾向的に多い気がする。バスツアー中であれば、会話する時間も多いはずであるのに、なぜわざわざ道中で立ち止まって会話を始めるのか?

 理由は簡単。思いついたからだ。『人間は歩いていると考えがまとまりやすい』という定説がある。

人間は歩くと心臓の鼓動が速くなり、座っている時よりも多くの血が体内を循環することになるので、血中の酸素が筋肉だけでなく体中のあらゆる器官に行き渡るようになり、脳にも酸素がたくさん供給されるようになります。この結果、運動中や運動後に記憶や注意力に関するテストを行うと、座っている際よりもパフォーマンスが向上することが分かっているのですが、これはとても軽い運動でも十分に効果を発揮するそうです。

また、定期的な運動は脳細胞間の新しい連結を増やすことにつながり、脳組織が年齢と共に退化していくことを防ぐことにもつながります。さらに、海馬の量を増やしたり、新しいニューロンの成長を刺激したり、ニューロン間での信号のやり取りを行うレベルを上げてくれたりもするそうで、運動が脳に与える影響がいかに大きいかもよく分かります。

バスでの長時間の移動によって滞っていた血流が、SAにおいて歩き始めることによって考えがまとまり、先ほどまでは出てこなかった話題が突如頭に浮かび上がる、またSA内での出来事について話をしたくなるからであろう。それゆえ、バスに乗る前に先に話しておきたいと思い、歩いている友人に声をかけその場で井戸端会議が始まってしまうのであると思う。

また、道中でのサンプル数が多い事も根拠となる。話すだけであれば安全地帯であればいいが、動き始めてからちょうど考えがまとまり始めるのが道路の中心となるわけだ。それにしても話しかけるにしても危険地帯で話かける必要はないのではないか、という疑問が残る。やはり道中で話しかける人類には前世は戦場でも話していたのかと思わされるようなDNAが含まれている気がしてならない。

完全に偏見ではあるが話題の鮮度が密接に関係しているのではないかと思う。実際話すという行為はいつしても良いのだが、話題というのは短期的にみても長期的にみても鮮度が重要で時間とともに話題に対する関心は落ちてしまう。そのため会話を生きがいとする人間は最高のタイミングで会話を持ち出したいわけである。その最高のタイミングというのが思いついた瞬間ではないかと考えている。

 

井戸端会議の盲目性

   さて、無事危険地帯で井戸端会議が始まってしまった。危険地帯で始まってしまった以上全然無事ではないが、会話は形成されたわけだ。ここからは井戸端会議の科学に入る。まぁ井戸端会議と言うものは総じて女性の主婦に限定されて使われることが多いが、これは歴史的な背景が原因かと考えている。人間の習性としてコミュニケーションをとることが挙げられるが、一般的な社会人は日常的にどこかしらでコミュニケーションを消費している。どんな形であってもだ。しかし、自宅で多くの主婦にとってはコミュニケーションを消費する機会が自然発生しない。それ故に近所の主婦と出会うと、ブロガーのアウトプットが如く、自然発生的に井戸端会議が始まる。それが主婦が井戸端会議を始める理由だ。

 

 話が脱線してしまったが、井戸端会議の盲目性についての話に入ろう。会話というものは集中してしまい、周りが見えなくなるということが往々にしてある。しかし、中でも井戸端会議というものの視野狭窄具合はとどまるところを知らない。理由は目的の違いにあると思える。会話には目的があるものだ。情報を伝えるため、仲良くなるため、考えを深めるため。会話に集中できない人は、目的というものに相手とのブレが生じてしまっていて、視野狭窄には陥りづらいが、仲良くなるための会話は視野狭窄になりやすい。なぜなら話の目的が内容ではなく相手にあるからだ。相手と仲良くなるためなので、正直話の内容は何でもよい。それゆえ、相手に集中してしまい、他のところへ意識が向かわなくなってしまう。逆に仲良くなりたくない相手との会話は他へ視野が映っていることがあると思う。それの逆だ。そのため、相手に集中してしまっている状況が続き、盲目になってしまう。

いわゆる『恋は盲目』という格言の一歩手前の状況になっているとでも表現してしまおうか。相手と仲良くなるための会話というものは相手に盲目になってしまいがちということである。

 

だからどうしろと?

 とまぁ、思いつく限りのことを書き出させてもらった。少し考えればわかると思うが。っていうか後半エビデンスを探すのが面倒になった。

ここで、おばさんたちが道のど真ん中で会話を始めるメカニズムがわかったところで、おばさんの数は減らないし、対策の方法も考えづらい。

「相手と仲良くしたいっていうんだったら、俺の車と仲良くなってやがれ!」ってな感じで車のアクセルを踏む世紀末に生まれなかったことを惜しむばかりではあるが、ぜひとも盲目になって話している老婆がいるのであれば声をかけてあげてほしい。その方々は目の前の人と仲良くするために何も見えていないのだから。

 

そういえばこの記事を書き上げるために会話学の論文を読んだが、全然見つからなかった。しかし、『井戸端会議』については面白い動画があったので、ぜひとも見てほしい。


サイエンティスト・トーク「井戸端会議を科学する!」

 

注目してほしいのは、演劇における会話の下りが気に入っている。